心穏やかに今ここを笑顔で
私たちが生まれた目的は魂の成長のため。覚悟を決めていざラストスパート!

結婚とは「夫婦2人の幼児性」を克服する場

夫婦げんかをやめるために

夫への期待をやめる

  • 私は夫に理想の夫の姿を期待し、そして妄想していると思う。
  • 穏やかさ⇒むり(相手の気持ちがわからない)
  • 落ちつき⇒むり(ADHDだから)
  • 理知的⇒むり(ADHDだから、よく考えないで言葉を発し、人を傷つける)

今の夫とは真逆の人間を期待している。だから夫の暴言やよく考えないで行動してしまうところにいらだっていると思う。そして近ごろでは、そういう夫を軽蔑し、見下している。徹底的に人格を否定する言葉まで夫にぶつけている。そんな自分がヘトヘトに嫌になってきているのだ。だから穏やかに暮らしたいと願っているのだと思う。

夫と別れるか別れないか。別れる気がないのなら諦めて夫を受け入れるしかない。

ホテルのペンダントライトに連続ぶつけるぶつける

夫の育った環境への同情

でも夫の家族をみても理性が育つ環境ではなかったと思う。夫の父親もADHDだったと思う。母親もあんまりよく考えないで言葉を言うタイプだったと思う。夫は親の姿を見て怒ること、車の運転の仕方を学んで来たのではないかと思う。自画自賛して自惚れるところも母親譲りなのではないかと思う。

そう考えれば、批判する、バカにするより、かわいそうだなと同情してあげるのがベターではないか。彼は変わらない。でも少しずつ意識して変化している。近ごろでは一瞬、イラッとするけど、後で変えたりしている。

「パーフェクトな人間は存在しない。そうなってしまったのは仕方が無い。その人だけが悪い訳ではないのだ」、パパの場合は環境にも問題があったと思うと、夫のことも諦めざる得ないのかもしれない。

逆を言えば、「彼は私の理想とする夫にはならない」。「私の思い通りの夫にはならない」のだ。私がそれを知るときかも。今の彼が嫌なら別れればいい、別れないなら諦めて、眼をつぶるしかないのだ。

思い出して、大阪のホテルでのこと

夫は大阪エクセレントホテルのペンダントライトに続けて4回も頭をぶつけていたのを思い出して!注意欠陥多動性障害なんだよ。人の話もたいしてよく聞いてないの。だから何回も繰り返して同じ失敗をするの。

なんど私が「もうしないで!」と言っても、同じ過ちを繰り返すのは、注意欠陥多動性障害の性質なんだよ!!ムリなんだよ、言っても。なんどでも同じことをするんだよ。

夫の自惚れにうんざり

自惚れ=慢。夫はいつも上手くいったことは、自分の手柄。上手くいかなかったことは妻である私のせいと言う。承認欲求が強い夫。時々うんざりする。

「俺はすごい!!」と豪語する一流はいない、それは三流。
プロフェッショナルは飽くなき探究心を持っている。客観的に自分の弱みも強みも冷静に判断する人は成長できる。

「人間は等しく愚かで有り、誰もが病気を患っているようなもの」byブッタ [大愚元勝, 自分という壁, 2023]

夫が私の理想の夫にならないことは、「どうにもならないこと!!」なのだ。

夫も私も「我が強い」

「自分はまちがっていない」と我を張る夫と私。
その頑固さを、まるで良いことのように思い込んでいる。どちらかというと、苦労を重ねてきた真面目な自信家に多く見うけられるらしい。私も夫もそうかも。

頑固に信念をまげない自信家の姿勢は、仕事などを進める上では大切なこと。しかし、家庭で我を張るのはけしてほめられたことではない。実際にケンカばかり。

我を張ってなかなか折れない夫も私も、自信があるだけにプライドが高く、「自分は間違っていない」のだから、我を張り続けても良いと思っているところがある。

また、そのせいで人間関係を狭くしたり、人に不満に思われてもかまわないという頑固さがあるので始末におえないところがある。

我の強い2人は「自分を理解してほしい」という気持ちがいつも先立ち、自分を相手に合わせることができない。なかなか相手の言うことを聞こうとしないし、誰であれ、その人の立場になって考えようとしないところがある。

つまり、我の強さが「心に悪い習慣」となってしまっていて、相手よりもまず自分の気持ちを優先するので、聞く耳を持てないところがあるのが問題。はじめから自分の頑固さを欠点と思わずに許しているとも言える。

我の強さは相手をかたくなにさせるだけで、なんの約にも断ちません。気持ちを分かってほしいと思うなら、先に相手の気持ちを理解し、受け入れる側に回ることです。

我を張る人は、人間としての器が小さいと心得るべきで、一度そのこだわりを捨てれば、人との絆が強まり、自分を取り巻く人たちが大切に思えてきて、人間的にも大きくなるはずです。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざ通り、常に謙虚、素直な姿勢で「受け入れられること」よりも「受け入れること」の賢さを身について「心に良い習慣」としていきたいものです。 [荒了寛, 365日を穏やかに過ごす心の習慣, 2013]

私は悪くない、あいつが悪い
自分が正しく、相手が間違っていると思うのは、苦しみの元
憎しみ・苦しみの元

これを反芻してしがみつくと、いずれ憎しみ・恨みという心の癌になる
そうすると体はどんどんこのがん細胞に蝕まれて苦しむことになる

私たち夫婦でここを何とかするのは至難の業
どちらかが大人になるしかない。
片目をつぶって、ベロを出して、黙るしかない

「どうにもならないこと」に心を消費しない
離れる・捨てる・割り切る

そして自分の心を善いものでバージョンアップ。

「あなたにとっては、それが正しいのですね」

「あなたにとっては、それが正しいのですね」良い言葉だね。パパに使おう。なかなか受け入れてもらえないときに、良い言葉だと思うよ。そしてスーッと立ち去ろう。

「判断すること」とは承認欲を満たす?

わかったフリは気持ちいい?判断すること自体が「気持ちよい」ことが理由で判断したがるのです。わかった気になれるし、結論が出せた気がして、安心できるのです。(ひょっとすると野性時代の「ここに餌がある」「ここには敵が多い」と言ったジョウッキョウ判断の名残、いわば本能なのかもしれません)

もう一つは「判断することで認められた気になる」、「やっぱりあの人は間違えている」などのようなことは「自分は正しい」と思える快楽がある。

慢という心の病気に気をつける

人を苦しめる「判断」には、「自分は偉い」「正しい」「優れている」と肯定しすぎる思いもあります。仏教ではこうした心理を”慢”と呼ぶらしい。

”慢”は自己肯定の様ですが、高慢、傲慢、プライド、優越感という思いは、結局、不満や、うぬぼれ故の失敗を招いて、損をします。

本当は「自分も、他人も判断しない」ことが、一番。そうすれば、心を喜び、満足に使え、楽に、素直に生きていけるのですよ。

「自分が正しい」から離れてみる。なぜならそれぞれ立場も体験も脳も違うのですから。

確かに立場が違えば「正しい」は違うかも。体験、経験が違えば「正しい」は違う、そして脳が違えば「正しい」も違う。これが分かることが「実るほどにたれる頭かな」の意味かも。どのような判断も、個人の頭に浮かぶ想念、妄想にすぎない!!

「つい判断してしまう」からの卒業

  • 「あっ、また判断してしまった」という気づきの言葉を、誰かのことを好きか嫌いか、いい人か悪い人かと「品定め」している自分に気づいたら「あっ、また判断してしまった」と気づこう!
  • 「自分は自分、他人は他人」と考える。判断は「心のくせ」のようなもの。世間には、較べること、評価すること、あれこれ詮索することが大好きな人が大勢います。噂話なんて「判断」のオンパレードです。もし真面目に、これ以上悩みを増やしたくないと願うなら、「判断」から足を洗うに限ります。
  • いっそのこと「素直になる」。自分が一番楽になれる。自分は偉い、正しいという”慢の心”に固まってしまうと、周囲との間に「壁」が出来てしまいます。人とわかり合えなくなります。また、何か言われると自分を否定された気がして、逆上したり、落ち込んだりと、苦悩を貯めていってしまうことに。こうした苦しみは、周囲が問題なのではありません。「自分は正しい」という思い込みが原因なのです。「正しい自分」でいるより「素直な自分」でいる方が魅力的です。
  • 人の話をよく聞けること、ものわかりがよいこと、心を開いて話し合えること。そういう自分のほうが幸せにになれると思います。

要は2人とも幼いということ

私はずっと義理の母のことが嫌いだった。なぜなら幼子の様に振る舞う義理の父の機嫌をとって、まるで「幼子をあやすように生きている」のをみて、嫌だな~とずっと思っていた。
でも、それは私がそれをできないからかもしれない。夫の暴言、なんでも上手くいかないときには私のせいにする様子などにいちいち腹をたててケンカしている私。
夫は幼少期の頃、夫の両親がやっていた夫婦の姿をまねしているだけかもしれない。それが夫婦のあり方だと思っているのかもしれない。妻に幼子の様な振る舞いをして甘える夫の姿。

私は義理の母の様に、夫の甘えた姿をみて、それをなだめようという気にはならないのだ。義理の母は、義理の父のことを「かわいそうな人なの」といつも同情していた。

私には、夫にたいしてそういう同情心はなかった。普通に大人の男として、対等なパートナーとして振る舞ってほしかったのだと思う。

 

結婚は幼児性の克服の場~小林正観

ケンカとは売る側がいて、買う側がいるから成り立つもの。

同じ言葉を他人から言われたときは、怒らないで踏みとどまることができるのに、同じ言葉をパートナーから言われると、すぐに腹を立てる夫(妻)がいます。

外では踏みとどまれるのに、家では踏みとどまれない(正確に言うと「踏みとどまらない」)のは、「幼児性」があるからです。

結婚はなんのためにするのか、じつは「幼児性を克服するため」に存在しているようです。

家庭というものは、自分の思いを通す場所でも、甘える場所でも、ストレスを発散する場所でもありません。

結婚をして、わがままが言い合える相手ができた状態になったとき、いかに踏みとどまって相手を受け入れるか、それを問われているのが「結婚の本質」のようです。家庭は「幼児性を削って大人になる作業をする場所」として存在しているらしいのです。

インナーチルドレン

もしかしたら人間の波動が上がることとは、大人の心を持つようになることなのかも。
幼子のような自分を大きな愛を持った大人の、理性的な自分(インナーペアレント)がなだめて、よしよしして、いつもご機嫌良く生きられるようになることなのかも。

インナーチルドレン、もしかしたら私たちの中に居るのかも。
そして大人になると言うこと、成長すると言うことは、もう1人の「愛溢れる自分(インナーペアレント)」がそのインナーチルドレンをよしよしして上手く、穏やかに過ごせるようにすることなのかもしれない。

大人の冷静な、理知的な自分が、いつも自分の中にある我の強い、幼子のような自分を見張って、機嫌を取りながら、いつも穏やかな心で入れるようにすることなのかも。

自分の内面の心を視る自分、そして相手をみる自分。

それが人の進化???かも
これが進化すること、成長することなのかも。
これが生まれてきた目的なのかも

ケンカしそうな時には物理的な距離をとる

夫とのケンカについては、物理的な距離を取ることが一番。怒りの感情のピークは6秒。まずは物理的な距離を取って、感情のピークをやり過ごす。この時にそばにいれば、燃えたぎる火に油を注ぎ、ケンカがひどくなるだけ。感情のピークがあるように感情にも底もあるので、まずは物理的な距離を取る。
《時間が過ぎるのを待つ》怒りの感情は6秒、ピークの後には底が来るから、状況や環境と行動を意図的に変える、紛らわせる。

夫婦の距離が近すぎる弊害

距離が近すぎると、期待が強くなり、期待通りでないと憎しみを抱くことになる。
時と場合によって距離感を使い分ける。ケンカは距離が近すぎるというサイン
相手は他人だと心にとめる。そして大切にする、感謝すること。

自分が正しいことを相手に認めさせる、あらゆる材料を使って相手に認めさせる。2人とも我の強いタイプ。ある意味意固地、頑固だから無理。諦めるしかない。ケンカになりそうになったら、その場から逃げるが勝ち。

夫にイライラすること

自慢話をしてくる(くだらないことで)

  • 「すごいね~」を言わなきゃいけないのかと思うとイライラしてくる
  •  義理の母の自慢話でうんざりした記憶がよみがえってイライラしてくる
  • 「いい加減に大人になれよ!」と思う
  • 自分の夫が小学生レベルに思えて軽蔑する気持ちになる

夫が仕事などでイライラしているときに、私にも声を荒げてくる

 「何で、こんなことで声を荒げられなくては!」と理不尽でイライラする

車を運転中、自分の思い通りにいかないと、他の車の運転手に文句をずっと言っている。

また暴走運転をしているときに「怖いからスピードを下げて」と言うと、「何が怖いんだ!」と怒鳴ってくる。

人を傷つけるような心ない言葉、ひどいことを平気で言ってくる

「なんでそんなことを言うの」と抵抗すると、「傷つくお前が悪い」と言ってくる

ケンカ解決策

1. 物理的な距離を取る

  • ケンカは距離が近すぎるというサイン
  • ケンカになりそうになったら、その場から逃げるが勝ち

2. ネガティブな気持ちを切り替えるための方法

  • 感覚に気をむける(ゆっくり目をつぶって、お腹に手を当てて深呼吸)
  • 嫌な気持ちを手放す気功をする