**NOと言えるようになるまでの軌跡
──わたしの主権を取り戻すまでの学び**
長い間、わたしは「年上の人を尊重するように生きること」を当たり前としてきた。
礼儀を尽くし、敬意を払い、丁寧に接することは正しさだと信じていた。
けれどその優しさは時に、境界線のない従順さとして扱われることがあった。
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■ 習い事での出来事
教室に通うことは好きだった。学びも交流も楽しかった。
しかし事情でしばらく通えないと伝えたとき、返ってきた言葉はこうだった。
> 「タクシーで来なさい」
受講料を払っている側なのに、なぜ指示されるのか。
なぜ講師の都合を優先されるのか。
良くしてもらったこともあるからこそ気づけなかったが、
あれはわたしを「使う」前提の態度だったのだと、今はわかる。
尊重とは、相手の事情や気持ちを理解しようとする姿勢のはずだ。
そこにそれがなかったと気づいたとき、あの場所から離れた。
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■ 病気のときに頼った自然療法
弱っていた時期、紹介されるままに商品を買った。
必死だった。希望がほしかった。
しかし病が治っても押し付けが続き、
まるで「買うのが当たり前」のように勧められた。
そのとき初めて言えた。
> 「私は必要ありません」
この短い一言に、どれほどの勇気が要っただろう。
でもその瞬間から、自分の尊厳を取り戻し始めた。
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■ 痛みが蘇らせた「悔しさ」
身体が弱ると、心も弱くなる。
すると、奥底に沈んでいた過去の記憶が浮上してくる。
怒りではなく、そこにあったのは「悔しさ」だった。
本当はNOと言いたかった
尊重してほしかった
対等でいたかった
飲み込まずに伝えたかった
悔しさは、叶えられなかった願いの残響だった。
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■ そして今は言えるようになった
わたしは利用される関係に対して、こう言えるようになった。
> 「私を利用しないでください」
そして、圧をかけられてもこう返すことができた。
> 「受けるかどうかは私のタイミングで決めます」
こちらから声を荒げる必要もない。
ただ、わたしの主権を手放さずに伝えることができた。
関係が切れたとしても、心は晴れやかだった。
嫌な気持ちから解放され、肩の力が抜けた。
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■ この経験はカルマの学びだったのだと思う
わたしには、すがってくる人にNOと言えることが必要だった。
それは「自分の主権を相手に手渡さない」という学び。
わたしの人生は、わたしの意志で選ぶ。
誰かの機嫌で決まるものではない。
優しさを持ちながらも、境界線を引ける自分。
それこそが、過去の経験が育ててくれた力だ。
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■ これから望む人間関係
互いに自立して、
互いを尊重しながら、
心地よく繋がり続けられる関係。
年齢で上下を決めるのではなく、
支配でも依存でもなく、
対等で風通しの良い距離感で生きていきたい。
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■ 最後に、自分へ残す言葉
NOと言えずに飲み込んでいたあの頃のわたしへ。
もう大丈夫。わたしは変わった。
今のわたしは、
誰かに主導権を奪われずにいられる。
わたしの人生は、わたしの手で掴む。
この気づきを忘れないために、ここに記す。
何度でも読み返せるように、大切に残す。
心穏やかに今ここを笑顔で
私たちが生まれた目的は魂の成長のため。覚悟を決めていざラストスパート!
