夫婦喧嘩から見えてきた「我」
先日、夫とお金の話をしていたときのことです。わが家には今、どれくらいのお金があるのか。私は夫に金額を伝えました。
すると夫が、ひと言。
「それだけか」
その瞬間、私はカチン。「何、その言い方!」と、一気に怒りが湧いてきました。
実は、この「それだけか」という言葉で喧嘩になるのは、これで3回目です。
どうして私は、この言葉にこんなにも反応するのだろう?
今回は、怒りの奥にある自分の心を見てみることにしました。
なぜ、その言葉が私の弱いところに刺さったのか
夫が言ったのは、「それだけか」。ただ、それだけです。
でも私の頭の中では、一瞬で「それしか残っていないのか」「ずいぶん使ったな」「もっと残っていてもいいはずだろう」という言葉に変換されていました。そして私は、「私のことを責めている!」と受け取ったのです。
でも夫は、そんなことは一言も言っていません。言っていない言葉まで、私の心がつけ加えていたのです。
では、なぜ私は「それだけか」に、こんなにも反応したのでしょう。
考えていくうちに、自分の中にある弱い部分が見えてきました。
私はこれまで、夫ほどお金を稼いできたわけではありません。夫が働いて得たお金で家計をやりくりし、子どもの教育にも使い、自分が病気になったときにもお金を使ってきました。
だから心のどこかに、「私は夫ほど稼いでこなかった」「夫が稼いだお金を使ってきた」「なんだか申し訳ない」という気持ちがあったのだと思います。
そこは、私の弱いところでした。
だから「それだけか」という短い言葉が、そこにグサッと刺さった。そして、その弱い自分を守るために、「私はちゃんとやってきた!」という怒りが出てきたのです。
弱い自分を守っていた「鎧」
最近、仏教の「我」や「無我」について考えています。
私の中には、「責められたくない」「ちゃんとしていない人だと思われたくない」という、傷つきやすい部分があります。
そして、その弱い部分を守るように、「私はちゃんと家計を守ってきた」「私は家族のためにやってきた」「私は無駄遣いなんてしていない」という「私」がいる。それはまるで、弱い自分を守る鎧のようです。
だから、その鎧の内側にある弱いところに誰かの言葉が触れると、「攻撃された!」と反応する。そして怒りという武器を持って、自分を守ろうとする。
今回の出来事で、そんな自分の心の仕組みが少し見えた気がしました。
夫に聞いてみたら、まったく違っていた
翌朝、私は夫に聞いてみました。
「いくらくらいあったら、もう『それだけか』って言わなくなるの?」
すると夫は、「ママのことを言ってるんじゃないんだよ」と言いました。
「自分がこれしか稼いでいないのかっていうことに腹が立つんだ。まだまだ稼ぐぞって、自分を奮い立たせてるんだよ」
そうだったの?
私は拍子抜けしました。
夫は私を責めていたのではありません。夫は、自分自身のことを言っていたのです。
「言葉」と「私の解釈」は違う
ここで、大きなことに気づきました。
事実は、「夫が『それだけか』と言った」ということだけです。
ところが私の中では、「私のことを責めている」という解釈が生まれました。そして、その解釈を事実だと思った瞬間、怒りが起きたのです。
つまり私の心の中では、
「それだけか」と言われる
↓
「私のことを責めている?」と思う
↓
それを事実だと思う
↓
怒りが起きる
↓
言い返す
ということが、ほんの一瞬の間に起きていました。
では、次にまた夫から「それだけか」と言われたら、どうしよう。
たぶん私はまた、「私のことを責めてる?」と思うでしょう。でも、そこで一度止まる。
「待て待て。それ、事実?」
「責められた」というのは、今、私の心に浮かんだ解釈です。だったら、意味を決める前に相手に聞けばいい。
「それって、どういう意味?」
たったこれだけです。
解釈をしない人になる必要はありません。人間だから、いろいろな解釈は瞬間的に浮かびます。
大切なのは、浮かんだ解釈を、すぐに事実だと決めないこと。
「意味を決める前に、聞いてみる」
これなら私にもできそうです。
「貪・瞋・痴」から自分の心を見てみる
仏教には「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」という言葉があります。「三毒」と呼ばれる、人を苦しませる心の働きです。
「貪」は、「もっと欲しい」「手放したくない」という執着。「瞋」は、怒りや反発。「痴」は、物事をありのままに見ることができず、思い込みなどにとらわれることです。
今回の出来事を振り返ると、私には「瞋」、つまり怒りが起きていました。そして「夫は私を責めている」という自分の解釈を、事実だと思い込んでいました。そこには「痴」と重なる部分もあるのかもしれません。
一方、夫は「まだまだ稼ぐぞ」と言います。夫は以前、「心の中に恐怖がある。だから安定が欲しい」と話したことがあります。
だからといって、夫の「もっと稼ぎたい」という気持ちを、単純に「貪」と決めつけることはできません。仕事への意欲なのかもしれないし、家族を守りたい気持ちなのかもしれません。
ただ、もし「もっと、もっと」と求め続けなければ安心できないのだとしたら、そこには「貪」につながる心もあるのかもしれません。
大切なのは、「夫は貪の人」「私は瞋の人」と決めつけることではないのでしょう。
「あ、今、怒りが起きている」「あ、もっと欲しいという気持ちが起きている」「あ、私は自分の解釈を事実だと思っていた」。
そうやって、自分の心に起きていることに気づく。それだけでも、心との付き合い方は変わってくるように思います。
夫にも、私にも「怖さ」があった
今回、もうひとつ気づいたことがあります。
夫には、「不安定になるのが怖い」という気持ちがある。だから、お金を稼ぐことや、価値の残るものを持つことで安心したい。
一方、私には、「責められるのが怖い」という気持ちがある。だから、「私はちゃんとやってきた」と自分を守りたくなる。
表面だけを見れば、夫は「もっと稼ぐ」、私は「もう十分じゃない」と、正反対です。
でも、その奥を見てみると、二人とも自分の中の「怖さ」から、自分を守ろうとしていたのかもしれません。
あの夫婦喧嘩は、二人の鎧がガチャンとぶつかった瞬間だったのかもしれない。
そう考えると、相手の見え方も少し変わりました。
青空側から眺めてみる
感情の真ん中にいるときは、「責められた!」「ひどい!」「私はちゃんとやってきたのに!」と、心の中が雲でいっぱいになります。
でも少し離れて、青空側から眺めてみる。
「夫が『それだけか』と言った」
「私は『責められた』と思った」
「その言葉が、私の弱いところに刺さった」
「怖くなった」
「怒りが起きた」
「言い返した」
そうやって一つひとつを見ると、「夫に責められた私」という一つの大きな物語ではなく、いろいろな出来事や感情が順番に起きていたことが分かります。
怒ってはいけないわけではありません。弱いところがあってはいけないわけでもありません。
「ああ、私はここが怖かったんだね」
と、自分で気づいてあげる。
そうすれば、鎧を着て相手と戦わなくても、自分の弱い部分を自分で守ってあげられるのかもしれません。
意味を決める前に、聞いてみる
これからも、夫の言葉が私の弱いところに刺さることは、きっとあるでしょう。
そんなときの、私の新しい合言葉です。
「待て待て。それ、事実?」
そして、
「それって、どういう意味?」
相手の気持ちを勝手に決めない。自分の解釈の中で戦い始める前に、聞いてみる。
夫婦だからこそ、「分かっているつもり」にならないこと。
今回、同じ「それだけか」という言葉で3回も喧嘩をしたからこそ、ようやく自分の心の動きに気づくことができました。
夫のひと言が変わったわけではありません。でも、その言葉を受け取る私の心を見ることができた。
また「それだけか」が飛んできたら、まずは、
「待て待て。それ、事実?」
そして、
「それって、どういう意味?」
と聞いてみよう。
それが今の私にできる、小さな心の練習です。
